Exhibition,Asia is one at GR SPACE TOKYO

2025



 

亜細亜 ハ 一な里

Asia is one

 1984年夏、ぼくは香港の街中をただひたすら彷徨っていた。ぼくにとっては初めての海外。あの時は、その後こんなにも多くの国々を訪れることになるとは想像もしていなかった。

 香港の街は、とにかく刺激的だった。ところが数時間ほどふらふら歩いていると、その街並みの中に存在する日常の光景は、どことなく日本に似ているところがあるし、言葉こそ違うものの、街の至るところには馴染みのある漢字が溢れている。親近感と違和感が同居しながら目の前に横たわっているようだった。そして、これと似たような感覚をかつて懐いていたことを思い出した。長い時間を東京で過ごしたぼくが、大阪の街で暮らし始めた頃のことである。

 当時、大阪芸術大学写真学科の4回生だったぼくは、卒業制作の真っ只中にあった。ゼミの先生はアートディレクターの高岡一弥氏。ある時、高岡先生から「君は卒業制作で賞などを取りたいと考えていますか」といった質問を受けた。即座に「そういうことはどうでもいいです」みたいなことを答えたと記憶している。すると先生は「今撮影を続けている、この“微視”のような世界をおもしろいと思うのなら、もう少し続けてみたらどうですか」と言ってくださった。

高岡先生は、写真に映し出されているぼくの小さな思いを見つけてくれたのかもしれない。その一言が、写真に対する意識と関心を一気に押し上げた。それからは夢中になって、街中に眠る小さな世界を見続け、そこに存在する大きなつながりのようなものをひたすら追い続けた。香港の街でも、そのまなざしの先にカメラを向けていた。

 その時点ではまだ漠然としていたが、すべてのものごとは必然をもってつながっているということだけは感じていたと思う。こうした経緯から生まれ、“Correspondance”とタイトルした写真がぼくの卒業制作となった。卒業一年後の1986年、大阪と香港で撮影した微視の世界 “Correspondance=呼応”で構成した初個展を東京で開催した。

 あれから四十年経った2024年。ぼくはいまだに “Correspondance”を追いかけている。

 

 1995年夏には、映画『青い魚』の撮影監督を担当し、同名の写真集も製作した。日常をテーマとした作品の舞台として選んだのは那覇だった。当初は、東京で撮影を考えていたのだが、街中をロケハンしても自分が思い描いていた日常の色彩をどうしても見つけることができなかった。

 そんな折、中川陽介監督が「菅原の言っているような場所が那覇にある」と声をかけてくれた。南の島ではなく、日常の場として改めて訪れると、まさにそこには思い描いていた日常が存在していた。その色彩はとても美しく、どこか懐かしい。もっとも安心することができる日常と色彩の世界は、間違いなくこの東アジアのなかにあることを確信した瞬間だった。

その後に訪れた奄美で、ようやくと言おうか初めてと言おうか、ぼくはずっと探していた光の世界「あかるいところ」にたどり着くことができた。あたたかい光は、長い時間をかけて見続けてきた“微視”と呼ばれるような小さな世界のなかにも存在していた、それは少しだけしっとりとしたあたたかい光だった。

 その翌年、いくつもの不思議な縁が重なって津軽を訪れることになった。地吹雪の中で捉えた光景の中に、ぼくはあたたかい光を見つけたような気がした。そのあたたかい温度そのものを写したくて、写ってほしくて、足繁く雪国に足を運んだ。そして、それまで撮影を続けてきた奄美と驚くほど同じようにあたたかい光を見つけることができた。さまざまな偶然を必然に変えていくのが写真の魅力とも言える。その後たずさわることになったアニメーション『蟲師』と『蟲師 続章』のオープニングも、偶然と必然の延長線上に生まれた作品だった。

 

なかでも韓国は、大きな縁と必然が存在している場所である。1980年代に親しくなった韓国人の写真家クー・ボンチャン氏とは、東京の街で何度も食事を共にしたり、お互いの展覧会を観に行ったりしながら、文化と写真について語り合ってきた。日本と韓国の文化交流さえままならなかった頃のことである。何よりもぼくたちの写真は、なんとなくとてもよく似ていた。そしてそれから十年にわたり、毎年ふたりでさくらの写真を撮りに行き、2013年には弘前市でさくらの二人展も開催した。

その頃ぼくは、弘前にある青南商事というリサイクル会社と仕事をしていた。仕事といっても、それまでの仕事とはまるで異なる。この社会とこの世界との関わりを共に模索するような関わり方だった。

社長の安東元吉さんが在日韓国人ということもあって、韓国とのつながりはより身近なものとなっていった。そして今では『韓国の「昭和」を歩く(祥伝社新書)』という書籍の著者でもある鄭銀淑さんと知り合い、彼女にいろいろ教えてもらいながら、韓国の田舎街の散策をとおして、韓国という国がより身近なものとなっている。

ぼくはかねてより、中国を含むいわゆる漢字文化圏には、ある同一性があると感じてきた。しかし今現在、その風通しは決して好ましいものとは言えない。だからこそ、ぼくたちが暮らす東アジアにおける “Correspondance”を、一つひとつ丁寧に見つめる必要があると考えている。その過程のなかで必ず、大きな同一性とともに、平和的なつながりを見つけることができると信じている。

少なくともぼくは今、自身の時間とこれまでの経験のなかに、大きなつながりと必然を感じている。長い時間を経て、今ようやく一番大切なものを見つけることができたとも言えるかもしれない。

 

つい先日、岡倉天心ゆかりの地でもある茨城の五浦海岸にある六角堂を訪ねた。現在の六角堂は、2011年の東日本大震災の津波によって流されてしまったので再構築されたものだ。その裏山には、六角堂を建てた岡倉天心のお墓がある。墓詣でを済ませた後、導かれるように六角堂に入ると、目の前に大きな石碑が現れ、「亜細亜」という文字が飛び込んできた。眺めながら自身の写真について考えを巡らせていると、「亜細亜」の三文字に続く文字に気づいた。

「亜細亜 ハ 一な里(あじあ は ひとつなり)」

岡倉天心の言葉である。碑の文字は天心を敬愛した横山大観による揮毫。短い言葉のなかに、とてつもなく大きく、とてつもなく力強い平和への願いが込められているように感じた。現代とは異なる時代ならではの言葉だったかもしれない。それでもその言葉が自身のなかで大きく響いた。

ぼくは今こそ、そこに暮らす人びとの日常、そのつながりを天心と同じような視線で見つめたいと思っている。その先には、分断のための壁ではなく、ひとつの壁でつながっている世界が立ち現れるに違いない。その世界ではおそらく、大きな同一感をもって、同じ光と同じ色を共有することができるに違いない。

ぼくは、そんな世界を見てみたい。そしてその世界が、いつまでも平和でありますように。

 「ASIA is one」



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